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銀座のメインストリートである中央通りの7丁目~8丁目付近を交差する通りが「花椿通り」です。名前の由来は、昭和初期に出雲から寄与された出雲椿(ヤブツバキ)が街路樹として植えられたことからその名がつけられました。現在は、御影石がきれいに敷きつめられ、その整備の記念として椿の花を持ったポニーテールの少女「はな」の像が置かれています。出雲から寄与された8本の椿は健在で、3月~4月にかけてきれいな赤い花を見ることができます。クリスマスシーズンにはライトアップされ、恋人たちの目を楽しませています。1年を通して老若男女を問わず、各国からの観光客も訪れる活気あふれるストリートとして愛され続けています。
「日比谷入江」と呼ばれた海を埋め立て、城下町の拡張を目指した整備が30年の後に終了、その地に手伝普請に駆り出された諸藩の大名の江戸屋敷が建ちはじめます。この辺り一帯には松江藩の上屋敷が建ちました。松江藩は出雲一国を領有していたことから、「出雲町」と名付けられ、通りも町名と同じく「出雲通り」と呼ばれました。
文明開化の象徴のひとつ、新橋~横浜間の鉄道開通に合わせて、急ピッチで街が整備され東京の玄関口にふさわしい洋風レンガ街に生まれ変わります。明治35年には、資生堂薬局内に「ソーダ・ファウンテン(現資生堂パーラー)」が開設され、日本初のソーダ水やアイスクリームを製造・販売し、直ちに銀座の名物となりました。大正12年(1923年)関東大震災により町の大半が焼失し、壊滅的な被害を受けますが、大規模な帝都復興計画を実施し、以前にも増して都市機能の拡充を進めていきます。昭和初期にはアールデコの影響を受けたモダンボーイやモダンガールと呼ばれる若者であふれ、「銀ブラ」が全盛を極めます。ちなみに「銀ブラ」とは、銀座をブラブラすることだけではなく、「銀座でブラジルコーヒーを飲む」の略のこととも言われる。そして昭和9年(1934年)には花椿通りに通り名の由来となる椿が寄与されます。
第2次世界大戦で壊滅的な危機をむかえた銀座は、戦後、服部時計店や松屋などの商業施設は、連合国軍のPXとして接収されますが、その傍らでバラックや露店で営業を再明するなど商店主らの手によって着々と復興が進められます。1946年には「銀座復興祭」が行われ軌道に乗り出し、1951年、GHQの命令により露店が廃止され、その代わりとなる数多くの建物が建てられ活気を取り戻してゆきます。その後町名整備が行われ、出雲町から現在の「銀座7丁目~8丁目」と改名されます。また川が首都高速道路に変貌をとげました。その名残として花椿通りの昭和通り側終端にある屋外エスカレーター付きの歩道橋には「ときめき橋」という名前のプレートを見ることができます。